ヨーロッパ文学に現れたイスラム教
   −イスラム教の神秘主義をめぐって−
                     
                             木村 聡

はじめに

ロレンス・ダレルという小説家に、アレキサンドリア・カルテットという作品がある。二十世紀初頭のエジプト都市アレキサンドリアにおける恋あり、殺人あり、陰謀あり、戦争ありという波乱万丈の一連の事件を、一作毎に異なる主要人物の、複数の視点から描いた作品で、実験的な手法にもかかわらず華やかな文体とちょっと推理小説を思わせるスリリングな構成で日本でも結構広いファンを持っている小説であるらしい。筆者も楽しんで読んでいるのだが、どうも読み進めながらいつも引っかかってしまう点がある。それは、この小説にしばしば出てくるシェイクというアラビア語の訳についてである。
現代のエジプトという舞台設定上、ヨーロッパ人のキリスト教、コプト教と呼ばれるエジプト独特のキリスト教、そしてイスラム教とでてくる宗教の種類も多く、筆者のように宗教史関係の勉強をしている者には、そうした各宗教の風俗の描写だけでも結構楽しめる。そうした中でときどき出てくるのがシェイク:族長という言葉である。どんな使われ方をしているか、ちょっと例を引いてみよう。…マウントオリーブはその言葉を嬉しく思った。「族長(シェイク)様、では、この取るに足らぬシリアの訪問者にあなたの意味をお明かしください」
――中略――マウントオリーブのロマンチックな心は激しくときめいていた―― 今こそ不思議な神の啓示を授かるのではあるまいか?市場のなかに隠れて、あの人眼をしのぶ世界――注意深く守られている、神秘哲学者たちの例の世界――のために秘密の使命を果たす信心深い人々の噂は、彼もしばしば耳にしていた。……
どうだろう、これはイギリスのエジプト大使マウントオリーブが、長く思い続けていた恋人と再会し、そのあまりにも無惨に老いさらばえてしまった姿にショックをうけ、エジプト人の姿に身をやつして街をさまよい、得体のしれない老人について行く場面なのだが、この場面での老人に対する「族長様」という呼びかけには何か座りの悪いものを感じないだろうか。明らかにマウントオリーブはこの場面で、何か宗教的な暗示に対する期待感を抱いている。そしてこの場面は場末の安酒場の一種怪しげな雰囲気の中で繰り広げられている。失意の英国大使が身をやつして訪れた場末の酒場で、何かそういう場所でのみ得られる神秘的・宗教的な救いに対する期待感を抱かせてくれた老人に対する呼かけが「族長様」では、ここの神秘的な雰囲気にどうもそぐわないのではないだろうか。
実はこのシェイクというアラビア語がくせ者なのである。筆者はこの小説を河出書房新社から出ている高松雄一訳で読んでいるので、原書のスペルがどうなっているのか分からないが、多分Shaikhなのではないかと思う。(発音はむしろシャイフに近い)このアラビア語は確かに「族長」という意味をもち、これが原義に近いのであるが、これから派生してきた別の意味を持っている。それはイスラム教の宗教的指導者、という意味である。ためしに日本で出版されている唯一の本格的なアラビア語辞書(あの途方もない種類が出版されている英和辞典とのなんという違い!)詳解アラビア語―日本語辞典(ユナイテッドパブリッシャーズ)でこの項を引いてみると、老人・年長者・首長・部族長・市長・教授、と意味が並んできて次に・イスラム導師という意味がきている。しかし宗教的指導者といってもいろいろある。ウラマーと呼ばれる公的な指導者(キリスト教の神父牧師に近い存在)ではこうした酒場の隅という場面にはふさわしくないだろう。実は、ここで描かれているような民衆的な世界ではシェイクという言葉には単なる宗教的な指導者という以上の、さらに微妙なニュアンスがついてくる。こういう文脈ではこの言葉はスーフィーと呼ばれる神秘主義的な修行者、なかでもそうした神秘主義的な教団の指導者という意味を持ってくる。こういう人物は神秘的、超常的な能力を持つと信じられており、日本ならさしずめ修験道の行者といったところだろうか、訳語の感じとしては、「長老様」とか「上人様」といったニュアンスになるだろうと思う。
さて、現代の小説の話だと思って読んでみたら、スーフィーなどという耳慣れない言葉が出てきてとまどわれている方もいると思う。耳慣れないのも道理で、これは例のオイルショック以後、イスラム世界に関する記述が若干増えた高校の世界史教科書でも、かなり詳しい数種類の教科書にのみ、しかもかなり最近になって採用されてきた用語で、イスラム史の専門家はともかく、一般の人にはとんと馴染みのない言葉なのである。しかし、それならたいして重要ではないのではないか、などと早とちりしないで頂きたい。これは、ドストエフスキーやトルストイのロシアを理解するのにロシア正教、なかでもその民衆的な諸分派に対する知識が欠かせないように、また現代の日本社会の理解に、いわゆる新興宗教に対する知識が必要なのと同様に、いやそれ以上にイスラムの民衆社会を理解する上での一種のキーワードなのである。そこで、このスーフィーという耳慣れない言葉について章を改めて述べてみたい。

スーフィズムについて

スーフィーというのはイスラム教の神秘主義的な思想家・修行者のことである。語源は、彼らがスーフ(羊毛)で織られた荒布を着て砂漠で修行に励んだからだと言われているが、実際の所ははっきりしない。とにかく彼らは砂漠の中で厳しい修行を行い、その修行の果ての宗教的恍惚の中で神を見、神と合一することを望んだのである。
しかし、と疑問を持たれる方がいると思う。イスラム教と言うのはアラビア半島の砂漠地帯という厳しい自然環境の中で生まれた最も厳格な一神教で、その神アッラーは人間の理解や想像を絶した絶対的な超越神のはずだ。その教義の中に、人間が神を見たり、ましてや神と合一するなどという神秘主義的な思想を受け入れる余地などないはずだ。こう考えられる方が多いのではないだろうか。
これはこれで間違いではない。いや、一般的なイスラム教の理解として正しいし、公式的な見解としても最も正当なものだろう。しかし、よく考えてみて欲しい。イスラム教勃興当初の、新興の意気に燃えた小数のリーダー達がイスラムに帰依し、大多数の信者はむしろそのリーダー達の後について行った時代ならともかく、イスラム教の拡大が一段落し、一般大衆の隅ずみまでイスラムの教義が浸透して行ったときに、果して大多数の人々がこれで納得するだろうか。
身近な例で見てみよう。現代の日本では宗教心が薄れてしまった、とよく言われるが、それでもたいていの人は正月には初詣に出かけ、お盆には仏壇や神棚に手を合わせるだろう。もちろん、なかには毎日仏壇に灯妙を欠かしたことがないという信仰心の篤い人もいるだろう。こういう行動を行っているとき、私達は「長い修行の末に涅槃に入った如来の悟の境地」だとか、「天地を開闢した天の御中主の尊の子孫としての神格」に思いを致したりするだろうか。たいていの人は、このときもっと身近な先祖の誰彼や、交通安全なら交通安全、学業成就なら学業成就、といった具体的な御利益で有名な身近な仏様や神様を念頭に置いて手を合わせるだろう。こうした、こまごまとした日常的な事柄に関する願望の、身近な神通力を備えた存在に対する祈り、これこそがごく一般的な大多数の人々の宗教感情ではないだろうか。
日本人はもともと汎神論的、アニミズム的な世界に住んでいるので、一神教的な世界観を持つ人々とは違うのだと言われるかもしれない。それなら、同じ一神教のキリスト教世界を見てみよう。ここでもマリア崇拝を頂点とする聖者信仰などの現象にぶつかる。キリスト教の信仰が、一部の宗教的な情熱に駆られた宗教的なエリートのものでなく、一般の人々にも浸透した中世のキリスト教世界に置いても、人々は最後の審判の日に自分達を裁く超越神の代わりに、優しい母性としてのマリアや、様々な御利益を持つ身近な聖者達に、日常的で卑近な祈りを捧げていたのである。
イスラム教世界における一般大衆だけが、こういう宗教感情から自由であったわけはない。アラビアンナイトなどをひもとけば、イスラム世界のたくさんの民衆が、子授けや金儲けなど実に細々とした事柄に対する祈りをアッラーに捧げているのが読み取れるだろう。しかし、この宇宙そのものから超越した絶対的な創造神では、どうも余り詰まらないことをお願いするのに具合が悪い、という心理が働くのも東西共通のもののようである。それが大乗仏教の世界で様々な専門的な御利益を持ったおびただしい菩薩群を産み出して行った基盤であろうし、キリスト教世界で同様に御利益別に分業したたくさんの聖者を産み出して行った基盤であろう。そしてイスラム教世界で、こうした大衆の宗教的願望に応える装置を提供したのがスーフィズムだったという訳である。
もっとも、スーフィズムが最初からこうした大衆的願望の受け皿という役割を果たしていたわけではない。そこにはいささか複雑な歴史があり、それがイスラム教徒以外の人間にスーフィズムという現象を見えにくくさせている。そこで、その歴史を概観してみよう。
最初期のスーフィー達は、ひたすら神を愛し、神に愛されることを願い、孤独な修行に励む人々であった。一切の欲得抜きで純粋に神を愛することを願い、その詩の中で「もし私が天国に行きたいという欲望のために神を愛していたとしたら、そのときはむしろ地獄の火で焼かれても後悔しない」と歌った女性のスーフィー、ラービアや「アナル・ハック:私は真理=神である」とその神秘的な神との合一体験を公言したために、火刑に処せられてしまったハッラージュなどの人物が有名である。このハッラージュの様に、スーフィーなどと言うものは、正当な公式のイスラムから見ればよくて異端すれすれ、ちょっとでも行きすぎれば徹底的に弾圧すべき異端そのものという存在で、せいぜいごく一部の宗教的エリートにのみ許されるもの、一般大衆とは無縁の存在、というのが初期の状況であった。
こうした状況に変化が現れたのは、11世紀にガッザーリーという大神学者が出てからである。この人物はイスラム教のトマス:アクイナスともいうべき人物で、アリストテレス哲学をバックボーンにすえたイスラム神学の大権威であり、彼がまとめたアリストテレス哲学の解説書は、ヨーロッパの大学で哲学の教科書として使われ、彼自身もアルガゼルのラテン名で中世ヨーロッパでよく知られ、大きな影響を与えた人物である。これほどの哲学者、神学者であったにもかかわらず、いや、それ故にだろうか、彼の宗教的な魂は自分が学んだ哲学、神学では十分な満足・安心を得られなかったらしい。壮年に達した彼は、アル・アズハル大学というイスラム世界最高の大学の教授という地位を捨てて、スーフィーとしての修行の旅に出てしまうのである。そしてスーフィーの修行を積んで大学に戻ってきた彼は、スーフィズムと正統神学との融和に努め、これ以後スーフィズムがイスラム教の公的な部分に進出するようになる。
しかし、これだけではスーフィズムが一般大衆の宗教的願望の受け皿となるには不十分である。実はちょうどこの頃、スーフィー達の思想に大衆の卑近な願いの受け皿として格好な思想が現れていたのである。それは、修行を積んだスーフィーは神と直接的に交流し、さらには神と合一することも可能な聖者なのだ、とする思想である。こうした聖者としての大スーフィーは神の奇跡力を分有し、さらに神に直接様々な願い事をすることも可能なのだ、というわけである。ここからこうしたバラカと呼ばれる聖者の奇跡力・呪力に期待し、神に直接祈るのはどうも具合の悪い身近な願い事を聖者に祈る、という聖者信仰・聖者崇拝と呼ばれる習俗が生まれてくる。そして日頃から特定の聖者に慣れ親しんで、その聖者との関係を密にしておけば最後の審判の日にも聖者のとりなしで天国に入る門が広くなることも期待できる、というわけである。
スーフィズムという本来高度な、宗教的エリート達による思想運動の中で生まれてきた聖者という概念が、どうにも近付き難い超越神との間に媒介者を必要としていた一般大衆にその願望を果たす方法を提供し、おりからのガッザーリーによるスーフィズムの公認化の動きの中で聖者崇拝という信仰習俗はイスラム教徒大衆の中に瞬くうちに広がって行った。大衆の中どころではない。14世紀になるとあの「三大陸周遊記」で有名なモロッコの大旅行家イブン:バツータでさえ、行く先々であるいは二百歳、あるいは三百歳と噂される聖者達にお参りすることを最優先事項にしている。何事もヨーロッパ人中心の日本ではマルコポーロと彼の「東方見聞録」のみが有名になっているが、実際にはマルコポーロとほぼ同時代人のバツータの方が旅行した距離からいっても遥かに長い距離を旅行しているし、なんと言っても彼は当時のイスラム世界最高の(ということは当時の全世界最高の)知識人で、インドに旅行したときはそこのイスラム政権の大臣になっている程であるから、その旅行記の価値もかなり高いものなわけである。これほどの知識人でさえ聖者崇拝という、本来の正統神学では異端とされかねない習俗にどっぷりつかっていたのであるから一般大衆の状況は推して知るべしである。
こうした風潮の中で、スーフィズムは聖者崇拝と切っても切れない、新たな重要な特徴を帯びてくる。それは、他の宗教の思想や習俗に対する極度に寛容な態度、さらにはそうした思想や習俗をイスラム教の中に受容して行くことに対する積極的な姿勢である。

神仏習合イスラム風

元来イスラム教は他の宗教にたいして寛容な態度を持っていた。これも一昔前の世界史の教科書、参考書にはキリスト教徒であるヨーロッパ人学者の偏見をそのまま取り入れて、イスラム教徒は新たな土地を征服すると「コーランか剣か」という態度で異教徒に臨んだ、などと書かれていたものである。しかし、これが中世を通じて政治、文化、軍事、経済全ての面でイスラム世界に立ち後れていた西欧キリスト教社会のコンプレックスからくる偏見であったことはすでに各方面で認められている。もっとも、この寛容性というのも、他の宗教を信仰するもの達が一定の税金を収めたら、その人々が自分達のコミュニテイー の中で宗教活動を行っている限りに置いてそれを認めていく、というレベルのもので、多神教的な思想や信仰習俗がイスラム教の中に入ってくることまで許容する、といったものではなかったことはもちろんである。それがスーフィズムの大衆社会への浸透が進むにつれて、この他の宗教に対する態度が変質してくる。
本来イスラム教社会にはシャリーア(聖法)と呼ばれるコーランに基づいた法体系が有り、これが様々な日常的、宗教的生活を規定している。たとえ一国の王といえども、このシャリーアを無視した行動をとることは許されない。ところが絶対神アッラーに直接相対することもできる聖者、という概念が広まってくるにつれこの神の恩寵を受けた聖者はシャリーアから自由である、さらにこの聖者の庇護に預かる信者も同様である、という考え方が出てくる。このへんの事情は、親鸞とその浄土真宗を持つ日本人にはむしろ理解し易いかも知れない。阿弥陀如来の絶対的な恩寵を信じる親鸞は、仏教の重要な戒律も守れない「悪人」こそが阿弥陀如来の救済の対象なのだ、とするいわゆる悪人正機説を唱える。そして肉食妻帯という仏教本来の在り方からすれば破戒坊主としてどのように罵られても弁解できない行動をあえてとる。こうした伝統を受けて、現在の日本の仏教界は、例えば東南アジアのそれから見ればとうてい仏教とはいえないものに変質していることは周知の事実であろう。それでもやはり日本の仏教も、大きな仏教という枠組の中に存在している。これが仏教、そしてインドで生まれた諸宗教・思想の柔軟で寛容な性格に由来するものであることは言うまでもない。しかし、他の宗教もこうした寛容性を持ち得るのであり、イスラム教社会でもこうした寛容性、(もっとも一面から見たらルーズな態度ということになるだろうが)が中世の大きな特徴になってくるのである。
こうして、スーフィズムの浸透とともにイスラム社会が変質していくのと平行するかのように、イスラム教はインド、東南アジアと言うそれまでとは全く異質な社会に進出していく。イスラム教徒が本格的にインドに進出し始めたのは12世紀ぐらいからであるが、それ以前にイスラム教が普及していたのは西アジアも北アフリカも全てもともと一神教が支配的な風土であったが、このインド、東南アジアはもちろん最も多神教的な風土である。このためイスラム教は、それまで全く経験のない様々な思想や習俗に出会うことになったが、上記の寛容性の獲得のために、そうした異質な思想や習俗と衝突するよりもむしろそれらと融合し、いわゆるシンクレテイ ズム(宗教混交)を起こしていった。この結果これらの地域ではイスラム教と、それ以前にこれらの地域にあった民俗宗教やヒンドウ ー教・仏教などと融合しほとんど神仏習合にも似た現象を呈している。
神仏習合といえば、毎年、正月の初詣には神も仏も関係無いたくさんの群衆がとりあえず手近な神社・仏閣に群がり、その直前のクリスマスと併せて日本人の宗教的な節操のなさがマスコミのからかいの対象となるのが半ば年中行事化している。そのさいマスコミの論調は、あいも変わらず世界には日本とヨーロッパしかないかのようにこの二つを対比させ、世界でこのように節操のない宗教心の持主は日本民族だけであるかのように書き立てるのが常である。しかし決してそんなことはない。広く世界を見回せば人々が、それが個人であれ共同体ぐるみであれ、二つ、またはそれ以上の信仰体系の中に矛盾なく住んでいることはさほど珍しいことではないはずである。例えば、イスラム教とヒンドウー 教という二大宗教が混在するインドでは、シバの神殿にお参りして額にシバの信者の赤い印を付けて貰った庶民が、すぐにその印を落してその足でダルガーと呼ばれるイスラム教のスーフィー聖者の墓にお参りする、などということが当り前に行われているお寺さんにお参りした後、境内や近くの神社についでにお参りをする、などという芸当はなにも日本人の専売特許というわけではないのである。
ここまで書いてきて、ちょっと珍しい資料にぶつかったので紹介しておきたいこれはインド人学者が紹介しているウッタルプラデーシュ州というネパールに近い北インドの州の一カーストの始原伝説に入っている報告である。いくつかおもしろい説話が入っているのだが、そのうちの一つの冒頭を次に引いてみよう。
・ In the biginning of the world there was chaos and no life on earth.
Allah Tala(Almighty God) then created Balmikji whose duty was to sweep the stairs leading to the Almighty's throne in heaven. Balmikji spent
his whole life performing his duty faithfully. ・・ Balmikji・ found a
choli(bodice) at the stairs of the heaven.・ By the grace of God the
choli gave birth to a male child.・・・ ・
(この世の始めにあっては世界は混沌としており、地には生き物の影もなかった そこで全能の神アッラーターラーは、天の全能者の玉座に通じる階段を掃除す ることを仕事とするバールミキーを創造した。バールミキーはその生涯を自分 の義務を誠実に遂行することに捧げた。・・バールミキーは、天への階段に一 つの胴着を見つけた。・
神の恵みでこの胴着から男の子が生まれた。)    このとき生まれた子供が、当のカーストの始祖になっていく、と話は続いていくわけだが、ここで興味深いのは「全能の神」Almighty GodとされているAllah Talaなる神である。前半のアッラーがイスラム教の唯一神であることは言うまでもない。このアッラーがターラなる他の神と習合している、と言うわけであるが、もしもこのターラがヒンドウー 教のTara女神だとすると話はますます面白くなる。
(ローマ字化する時、rとlはしばしば通用しあう)。というのも、ターラは元来はインド起源の女神であったらしいが、むしろチベット密教の世界で16世紀頃から観音菩薩の化現の一形態として崇拝され始め、それがヒンドウ ー教の主神シバの神妃の一柱として逆輸入されたものだからである。
チベット密教のターラは観音菩薩が衆生を憐れんで流した涙から生まれた、とされ、ほんの15、6歳の少女の姿をとって現れる慈悲の心の権化のような存在である。ところが、ヒンドウ ー教の世界では、人間に恐怖と救いを同じにもたらす暴風雨の神格化から発達したとされるシバの神妃にふさわしく恐ろしい姿で現される。シバの神妃としてはよりポピュラーなカーリーやドウ ルガーの様に、ドクロのネックレスを首にかけ、虎の皮で出来た衣を身にまとった恐ろしい姿で、しかし日本の様々な明王像のように信者にとってはむしろ魔性のものを降伏する絶対的な力を現す頼もしい姿で立つ女神である。このターラー女神が、アッラーと習合してAllah Talaなる新しい神格を生み出したとすると、これは全く神仏習合そのものである。実のところこの例は最近眼にしたものなので、まだ調べる余地が在るのだが、「神仏習合」が決して珍しい現象では無い、という雰囲気はお分かり頂けたのでは無いだろうか。
このように、仏教が日本に定着する課程で神道をその一部として取り入れたのと同様に、イスラム教も中世の拡大期には行く先々で様々な土着の宗教の習俗・思想を取り入れていった。こうした地盤を提供したのがスーフィズムだったわけで、むしろ14・5世紀から19世紀あたりまでのイスラム教はスーフィズム一色と言っても過言ではない。日本人の旅行者などがイスラム世界を旅して、イスラム教の原理的な教義からは理解できない風習にでくわしたりするのも、多くはここに原因が在る。まあ、これは仏教の原理を学んだ異邦人には日本の葬式仏教がほとんど理解不能なはずなのと五十歩百歩と言ったところだろうか。なにはともあれ、こうした次第で現代でもイスラム教の民衆的な世界では、スーフィズムがイスラム世界に導入した様々な非イスラム起源の習俗が大きなウェイトを占めている。これがマウントオリーブのさまよったエジプトの下町の社会なわけである。

おわりに

簡単にスーフィズムの歴史を概観するつもりが思わぬ回り道をしてしまったが現在のイスラム社会に置いてスーフィズムが果たしている役割についておおよそのイメージを持っていただけただろうか。つまるところ大英帝国のエジプト大使マウントオリーブは、失意の果てにエジプト人に身をやつしてさまよい着いた下町の安酒場で、市井に埋もれながら神秘的な秘密を知り、それを必要とする人々に精神的な導きと救いとを与えてくれる聖者に出会ったと思い、よろこんだわけである。そして失意と苦悩のどん底にある自分の目の前に神秘の扉が開き、苦悩の果てに開示される癒しの秘蹟が現れるもの、という期待を胸に秘めてその謎の老人に付いて行ったわけである。ところが、その老人の正体は、とここでどんでんがえしが有るわけであるが、それについてはこの小文のテーマと直接関係無いので小説を読んでいただいてのお楽しみ、ということにしておこう。
いかがだろう、シェイクという言葉を「族長」と訳すより、いままで述べてきた事をふまえて「長老」なり「上人」なりはたまた直接的に「聖者」なりの訳語を与えた方が、文脈の上からよほどすっきりするのではないだろうか。
このような誤訳(筆者は誤訳と信じている)が出てきてしまうのは、訳者の責任ばかりとは言えないだろう。これはひとえに日本人一般のイスラム教に対する認識不足に原因があると思う。ではその認識不足の原因を更に探ってみると、結局は今までの日本がイスラム世界とあまり関係を持たずにきたこと、そしてそのために十字軍時代以来ヨーロッパ世界に一般的な、イスラム憎し、の感情からくるイスラム世界が文化的に果たした役割をできるだけ低く見よう、という傾向をそのまま受け入れたことにある。ちなみに、ヨーロッパ世界の学問的伝統の中では、できるだけイスラムを低く評価したい、という感情的傾向と平行して、意外に冷静に客観的な研究を積み重ねていく努力がなされている。やはりついこの間まで痛めつけられていた相手だけに、悔しくともその実力は認めざるを得ない、といったところなのだろう。(これも日本人の間には、15世紀の大航海と16世紀のレパントの海戦以来、軍事力、経財力などの面でヨーロッパがアジアに対して優位に立った、という誤解が広まっているが、実際には18世紀後半に産業革命が起こってからも、まだアジア諸国の方が総合力では優位に立っていた。これも書き出すときりがないので、別の機会に譲りたい。)
こうした事情からスンナ派とシーア派の区別も良く付かない外交官が、例のオイルショックの時に、石油の獲得競争で大きく遅れを取り、それが高校の歴史教科書の記述にイスラム史が増える原因となったことは記憶に新しい。しかし、異国の文化はやはり民衆同志が分かりあって始めて真の交流が可能になる。そのためにはこうした文学に現れた社会のレベルから少しずつ理解を深めていくのが、迂遠なようでも結局近道なのではないだろうか。
近頃読んだ小説をネタに、気軽なエッセイを書くつもりが、妙に大上段な結論に飛躍してしまった。秋の夜長の徒然に少し大風呂敷が過ぎたようである。この辺でひとまず筆を置こう。