インドにおけるイスラムとヒンドゥーの交流について
         ―北インドの一カーストの起源説話をめぐって―

                                      木村 聡


  はじめに

 現在、インド亜大陸と東南アジアを中心とする地域には数億になんなんとするイスラム教徒がおり、イスラムは西アジアの宗教というより、南アジアの宗教であると言っても過言でないような状況がある。このような状況が生まれてきたのは、イスラム教が伝来して以来、ヒンドゥー教などの南アジア本来の宗教からイスラム教への大量の改宗者が出た結果である。
 この改宗の問題を見ていくと、二つの重要な論点が浮かび上がってくる。
 一つは、イスラム教徒社会内部でのイスラム教の大衆化の問題である。どのような高等宗教も、それが一部の知識人達のみが理解できる、知的エリート達の独占物である限り、真にその社会の中に根付くことはない。高度な知的整合性をその最も強力な武器とする高等宗教も、大衆社会の情念の世界の中に根を下ろすことが出来ない限り、やがては立ち枯れてしまわざるをえない。このことについては、改宗者が下層のヒンドゥー教徒を主とした階層から大量に出たということからも、ヒンドゥーの下層大衆への働きかけが可能なまでに、イスラム教内部での大衆化が進行していたことを予想できる。(この点については、鎌倉時代の広範な仏教の大衆化と、神仏習合の進行以前に、行基集団などによる仏教土着化の試みの有った日本の例(1)などが参考になろう。)
 今一つの、より重要な論点は、大衆化したイスラム教を信じる人々の社会と、ヒンドゥー教社会との交流、相互作用がいかになされたか、という問題である。特に今日的な視点から見るとき、この問題は重要な意味を帯びてくる。 ヒンドゥー、イスラムの両文明は、共に世界史を代表する大文明である。そして、ヒンドゥー教、イスラム教は共に宗教の様々な面において同等のレベルにある高等宗教である。この二つの出会いは、例えば仏教と出会った日本の場合や、キリスト教と出会ったゲルマンの場合の様に、文明としてのレベルが圧倒的に違うために、一方が他方から一方的に影響を受ける場合とは全く違う様相を呈する。また、中国における儒教と仏教の出会いの様に、一方が他方には全くない形而上学的な思索の経験を豊富に持っているというような場合とも違う。このように全く対等な立場の二文明の長期に渡る接触と交流は、今日のいわゆる「西欧の衝撃」により、現代世界の各地で行なわれている、苦渋に満ちた、試行錯誤による交流の先駆をなすものである。このような観点からすれば、このフィールドほど今日的な問題に大きな意味を持つ、豊かな可能性に満ちたフィールドはないといってもいい。
 筆者は、かつて第一の論点について、ダルガー(インドにおけるイスラム教徒の聖廟建築)の建造年代と、インド人学者によるスーフィー(イスラム神秘主義者(2))詩人達の詩の内容の検討を手掛かりに、十四~十五世紀のインドにおいてスーフィー思想に大きな変化が起こり、いわば奈良の教学仏教から、鎌倉の大衆仏教への転換にも比すべき変質が起こったことを論じた。つまり、インドにおけるイスラム教徒の社会内部でイスラム思想の大衆化が起こり、ヒンドゥーの大衆社会との交流の可能性が開けたのである。しかし、この点については十分論じることが出来なかった。
 そこで、本論文の目的であるが、第二の論点に関してヒンドゥー、イスラム両教の交流の形態を探ることにある。ただし、第一の論点のとき同様、文献史料の圧倒的な不足と、現在までの基礎的な研究の積み重ねの不足により、通常の歴史学的な方法でのアプローチには限界がある。そこで、前論文のとき考古学的なアプローチを併用したのと同様に、本論文では主に民俗学的な面からのアプローチを試み、文献史料の不足を補いたい。

  第一章 インドへのイスラム教の浸透

 インドにはイスラム教勃興間もない八世紀初頭には、すでにイスラム商人達の手でイスラム教が伝えられたとされている。しかし、改宗者を生み出すような本格的な流入が行なわれるようになったのは、十三世紀の奴隷王朝を始めとするデリー・サルタナットと、それに続くムガール帝国、というムスリム支配政権の誕生以後のことである。
 こうしたなかで、イスラムに関する研究がまだ進んでいない状態のころには、いわゆる「コーランか剣か」、という形で支配者による強制的な改宗が進められたのだとする説が唱えられた時代もあった。しかし、この点に関しては今や完全に否定されたといっていい。
 かわって唱えられたのが、十三世紀前後のスーフィー聖者とその教団による布教活動による改宗者の増大、という説であり、日本やアメリカの高校の教科書にも取り上げられ、今や通説化している。この説は日本でも荒松雄氏が唱えて以来一般的になった説で(3)、十二世紀から十三世紀に掛けて活躍し、聖者と呼ばれるほどの宗教的、人格的な魅力を備えた大スーフィーと、その聖者の呪力(バラカ)を受け継いでいるとされる弟子達によるスィルスィラ(鎖)と呼ばれる教団の積極的な布教活動に改宗者増大の原動力を見ようとするものである。
 しかし、この説は十六世紀頃に成立し始めた聖者伝の記載を無批判に採用しているため信用できないという批判(4)も強く、筆者もダルガー建造物の建造年代の分析の結果からこの説には否定的な見解を持っている(5)。
 ここで興味を惹かれるのがインド人学者K・S・ラルによるインドにおけるムスリム人口の推計の結果である(6)。

付表1


この推計そのものは、使われた資料の制約や、資料の扱いかたの面などで必ずしも全面的に信頼できるものではないが、おおよその見当を付けるのには十分活用できると考えられる。
 このグラフから読み取れるのは、一四〇〇年代から一六〇〇年代の間にムスリム人口が急増していることである。この点に関して筆者は、このムスリムの急増期が、インド人学者シャルダによるスーフィー詩人の詩の分析(7)や筆者によるダルガー建造物の年代分析(8)から明らかになった、ティムールによるインド侵攻が生んだ社会的、思想的な混乱の中で、インドのスーフィー思想に大きな変化が起こったと思われる時代(9)と重なりあっていることに注目したい。こうした混乱の生む社会や思想の流動性が、改宗という現象に何らかの関わりを持つと推察されるからである。
 しかし、この時期のヒンドゥーからムスリムへの改宗の実態を示す具体的な史料はほとんど無いに等しい。
 そこで、筆者は先の論文でムスリム社会内でのスーフィー思想の変質を跡付けるのに、ダルガー建造物の建造年代での分類による考古学的な手法を取ったのと同様に、ヒンドゥー、イスラム両教徒の交流の実態と、改宗のメカニズムとを民俗学的な手法を取り入れて類推していくこととしたい。
 そのために、次章では北インド、ウッタルプラデーシュ州のバンギー(Bhangi)と呼ばれる一カーストの起源説話の紹介と、その分析から話を始めたい。

  第二章 バンギーの説話について

 インドのイスラム教徒は日本人の常識的な理解とは裏腹に、ヒンドゥー社会の影響の下にかなり多数のカーストに分かれているようである。付表に、ウッタルプラデシュ州と、ビジャプール地方におけるカーストの表を挙げたが、一見して分かるように、上位四カーストについては双方の表で全く同じである。これは、この四カーストが西アジアなどから移住してきた本来のイスラム教徒をその出自とするためである(10)。これら以下のカーストは、元来ヒンドゥー教徒であったものが、どこかの時点でイスラム教徒に改宗した人々を中心にしており(11)、地方色の豊かな名称になっている。
 さて、このようにヒンドゥーからイスラムに改宗したといっても、ビジャプール地方の下位カーストにおいては、ヒンドゥー教の神々への信仰や、ヒンドゥー教の祭りを捨てていないものも多く(12)、この間の事情はウッタルプラデーシュ州でも似たようなものだと思われる。
 日本人の常識的な理解では、イスラム教というのは最も厳格な一神教であり、ヒンドゥー教のような多神教との共存は不可能な宗教であり、また、その神の下での人間の絶対的な平等の観念により、カースト制度のような制度とは相いれない宗教のはずである。従来の通説では、ヒンドゥーからイスラムへの改宗の動機自体が、カースト制度下での不平等からの逃避として説明されることが多かった。しかし現実はそのような常識的な理解からは程遠いものである。そこで、以下において、「Muslim Caste in Uttar Pradesh」の記述によりながら、北インドにおけるムスリムカーストの実態を見ていきたい。

付表2 ウッタルプラデーシュ州 
Ⅰ外国起源のカースト      
 ・Sayyad
・Shaikh
・Mughal
・Pathan
Ⅱラージプート起源のカースト
ア)完全にムスリムのカースト
 ・Bhale Sultan他3カースト
イ)ムスリムのブランチを持つ
 ・Bais他11カースト
Ⅲ職業別のカースト
ア)完全にムスリムのカースト
 ・Atishbaz  花火職人
・Bawarchi  コック
 ・Bhand 道化師
 ・Bhatiyara   旅館の主人
 ・Faqir 乞食
 ・Gaddi 牧畜業者
 ・Mirasi 音楽家
 ・Momin Julaha 機織り
 ・Nanbai ベーカー
 ・Qassab 屠殺人
イ)ムスリムのブランチを持つ
 ・Dhuniya 木綿すき
 ・Kunjra Kabariya 八百屋
 ・Manihar 腕輪職人
 ・Barhai 大工
 ・Chikwa 屠殺人・牛は殺さないは殺さない
 ・Dhobi 洗濯屋
 ・Halwai 菓子職人
 ・Kumhar 陶工
 ・Lohar 鍛冶屋
 ・Nai or Hajjam 床屋
 ・Teli 油搾り
Ⅳアンタッチャブル
 ・Bhangi、以下のサブカーストに分かれ、全てムスリムとヒンドゥーのブランチを持つ
  'Balmiki
'Bansphor
'Dhanuk
'Dhe
'Ghazipuri Rawat
'Hanri or Hari
'Hela
'Lal Begi
'Pthharphor
'Shaikh Mehtar
C.Ansari,Muslim Caste in Uttar
PradeshのAppendixAより作成

付表3 ビジャプール地方
①外国起源のコミュニティー
 ・Saiyid
 ・Shaikh
 ・Mughal
 ・Pathan
 ・Kakar
 ・Labbey
 ・Jat
②ヒンドゥーからの改宗者起源のコミュニティー
 ・Momin     機織り
 ・Bakar Kasab 羊屠殺人*
 ・Bagban 八百屋*
 ・Attar 香水職人*
 ・Manyar 金物細工商
 ・Kagzi 紙職人
 ・Kalaigar ブリキ屋
 ・Nalband 蹄鉄工
 ・Hakim 医者
 ・Mahawat 象使い
 ・Chaparband 屋根ふき*
 ・Bhadbhunja 穀物炒り*
 ・Gaundi 煉瓦職人*
 ・Pinjara 洗濯屋*
 ・Patvegar 房職人
 ・Saikalgar いかけ屋*
 ・Pakhali 水商人*
 ・Hajam 床屋
 ・Bhatyara 低カースト用のコック
 ・Kanjar 鳥商と麻縄作り*
 ・Pindhara 草刈り人*
*印はヒンドゥーの地方的な神々への信仰と、ヒンドゥーの祭りの習慣を残しているグループ  R.M.Eaton Sufis of BijapurのAppendixⅢより作成


 まず、ウッタルプラデーシュ州のムスリム人口であるが、この調査が行なわれた一九六〇年現在で八百万人を数え、これは全人口の十四%に当たっている。
 このムスリム達はその出自によって、主に
Ⅰ外国から移住して来た、元からのイスラム教徒(Ashraf)
Ⅱ高いヒンドゥーカーストからの改宗者(MuslimRajiput)
Ⅲ低いヒンドゥーカーストからの改宗者(Atishbaz=花火 造り、などの様々な職業に従事)
Ⅳアンタッチャブルからの改宗者(Bhangi)
の四つのカテゴリーに分けられる。
 これらのカテゴリーは、さらに付表に挙げたように様々なサブカーストに分かれるが、これらはサブカースト全体としてムスリムに改宗しているものもあれば、サブカーストの一部がムスリムに改宗し、残りはヒンドゥーのままでいるものもあるなど、実態はなかなか複雑である。従来の日本におけるカースト制度理解では、複雑なカースト制度はあくまでもヒンドゥー教徒固有のものであり、ムスリムはその宗教的な平等理念の下カースト制度の制度外にいるか、せいぜいムスリムという、その内部では平等な一カーストを全体として構成するか、といったイメージが強かったと思うが、事はさほど単純ではない訳である(13)。
 さて、これらのカーストは、ヒンドゥー教のカースト同様にヒエラルキーを構成し、その順序はおおむね上に挙げた順番と一致する。そして、ことに結婚などの場合にはこのヒエラルキーでのカーストのランクが重要な役割を果たす。特に我々日本人の常識的なイメージと反してくるのは、上級のカーストの成員が、同じムスリムの同一ランクの結婚相手を見つけることが出来なかった場合に、同じムスリムの下級カーストから相手を選ぶよりも、カーストのランクが同一のヒンドゥー教徒から結婚相手を選ぶ場合があることである(14)。
 これとは裏腹に、元来アンタッチャブルのヒンドゥー教徒からイスラムに改宗したバンギーの場合には、改宗後もアンタッチャブルとしての性格を色濃く残している。このバンギーは、イスラムに改宗したものとヒンドゥー教徒のままのものとが混在しているが、いずれも清掃業を主な職業とし、極めて不浄視されている。そのため非ムスリムはもとより、ムスリムであってもモスクやダルガーへの出入りは社会的に容認されていない(15)。このことは、特にダルガーに関しては、後述するようにヒンドゥー教徒を始めとする非ムスリムも自由に出入りしている状況が有るだけに、重要な意味を持つ。
 さて、このバンギー達は、社会的な身分が低いにもかかわらず、いや、かえってそれ故に自分達の出自に誇りを持ち、独自の起源説話を伝えている。この間の事情は、日本でも木地師の集団や非人などの低い身分階層の人々が、自分達の出自を語る独自の文書を伝えているのと同様なものが有ると思われる。以下に最も特徴的な説話の冒頭部分と、その日本語訳を挙げてみる(16)。
In the bigining of the world there was chaos and no life on earth. Allah Tala(Almighty God) then created Balmikji whose duty was to sweep the stairs leading to the Aimighty's throne in heaven. Balmikji spent his whole life performing his duty faithfully. ―中略―Balmikji found a choli(bodice) at the stairs of the heaven―中略―By the grace of God the choli gave birth to a male child.

(この世の始めにあっては世界は混沌としており、地には生き物の影もなかった。そこで全能の神アッラーターラーは、天の全能者の玉座に通じる階段を掃除することを仕事とするバールミキーを創造した。バールミキーはその生涯を自分の義務を誠実に遂行することに捧げた。―中略―バールミキーは、天への階段に一つの胴着を見つけた。
―中略―神の恵みでこの胴着から男の子が生まれた。)
 この説話で生まれた男の子が、バンギーの一支族の祖先となる訳であり、この説話から、バンギー達が自分達のカーストの職業を全能者から与えられた神聖なものとしてとらえていたこと、また自分達の祖先が神の特別な恩寵で生まれたと信じていたことが分かる。
 さて、ここで我々の特別な注意を引くものに、全能者とされているAllah Talaと呼ばれる神格がある。前半のAll‐ahはイスラム教の唯一神アッラーに間違いないとして、後半のTalaというのは一体なんなのだろうか。我々は多神教の世界ではこのような形の神名にしばしば出会う。似たような性格の二つの神の名を並列におき、やがて一つの神に融合していく過程で現れる現象である。しかし、エジプトやメソポタミアなどの多神教の世界でならいざ知らず、最も厳格な一神教であるイスラム教の唯一神アッラーが何か他の神格と並列におかれるなどということが有り得るのだろうか。その可能性を探るために、章を改めて現代インドのダルガーを巡る信仰を中心に、ヒンドゥー教とイスラム教との交流形態について概観してみたい。

  第三章 ヒンドゥー教とイスラム教の交流について

 インドにおいて、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が画然と分断された社会を形成しているのではなく、意外に密接な交流を行なっていることは、荒松雄氏などがつとに指摘していることである(17)。ことに、イスラム教の聖域であるダルガーにおいてヒンドゥー教徒が公然と出入りし、様々な宗教的行為を共同に行なっていることは、鈴木斌氏の報告などに詳しい(18)。
 鈴木氏の報告で取り上げられている、ニザームッディーン・オーリヤー廟と、ムイーヌッディーン・チシュティー廟とは、インドを代表する大ダルガーであるが、ヒンドゥー教とイスラム教との混淆は何もこうした大ダルガーのみでの特殊現象ではない。そこで、インド人学者による二つの中規模のダルガーに対する報告を利用して、ヒンドゥー教、イスラム教の交流の実態をかいま見、あわせて、一般的な交流形態の種々相をも検討してみたい。
一.マーティル・サーラー・マスウード・ガーズィー(Ma ‐rtyr Salar Masud Ghazi)とそのダルガーについて。
 サーラー・マスウードは現在、主にラジャスタン、パンジャブ、ビハール、ベンガルなどの北インドでヒンドゥー、ムスリムの両者から崇拝されている聖者である(19)。ことに、ベンガルでは、ガーズィー・ミヤーン(Ghazi Miyan)の別名で、Panch‐Pir(五人の聖者)の一人としてポピュラーな存在である(20)。
 Panch‐Pirというのは、ベンガルのムスリム社会では重要な役割を果たす存在で、主に家庭内で祭られる(21)、日本でいえば七福神のような存在である。その起源ははっきりせず、十五世紀頃に崇拝され始めたと想定されるが確かではない。これに数えられる聖者も地方によりまちまちであるがほとんどのリストにガーズィー・ミヤーンとして、サーラー・マスウードが数えられる(22)。さらに、我々の主題からして興味深いのは、このリストの中にイスラムの聖者とならんでヒンドゥー教の神々が数えられる場合が多く見受けられることである(23)。儒仏道に神道と、様々な宗教の神仏を並列に扱い、七福神として現世利益を追い求める日本の民衆の宗教的なエネルギーと同質な物を感じるのは筆者だけでは無かろう。
 さてサーラー・マスウードはMartyr(殉教者)とGhazi(聖戦の戦士)の称号を持つことからも分かるように、ヒンドゥー教徒との聖戦に倒れた殉教者である。その歴史上の姿ははっきりしないが、伝説によれば、その一生は次のようなものである(24)。
…サーラー・マスウードは有名なインドへの侵略者であるガズニのマフムードの甥として生まれ、一〇三〇年に十六才で遠征に参加し、ウッタルプラデーシュの東まで進み、そこで土着のBhars 族と衝突した。このとき、彼は太陽、もしくはMahadev (シヴァの異称)の神殿の傍らにある聖なるMahua の木の下に陣をしき、ここが気に入ったので偶像を移動してここに住む意向を明らかにした。しかし彼は、Bh‐ars 族との闘いで未婚のままの十九才の若さで戦死し、先のMahua の木の下に葬られた。…
 サーラー・マスウードの墓が最初に建てられたのはいつか、いつごろから巡礼が訪れるようのなったのかははっきりしない。しかし、十三世紀の詩人アミール・ホスローはすでに彼がポピュラーな存在になっていることに言及している。
 ここで我々の主題からして興味深いのは、この伝説を紹介しているSchwerinが、サーラー・マスウードが彼のとき以前から神聖視されていた場所に埋められたため、地域の人々(ヒンドゥー教徒)が、彼の埋葬後もそこを訪れたであろうこと、そしてその人々が、サーラー・マスウードが恐るべき存在であること、またそれ故に崇敬すべき存在であることを知り、やがて彼を崇拝の対象にしていったと分析していることである(25)。こうした、菅原道真や平将門を思わせる祟り神的な要素が、洋の東西を問わず民衆的な信仰形態の重要な要素であることは論をまたないであろう。
 さて、サーラー・マスウードのダルガーをめぐっては後世に新たな伝説が付加し、そこではZohra Bibiなる盲目の未婚の少女が彼の墓の霊験で目が見えるようになるが間もなく未婚のまま死を迎える。そして彼女の両親が、未婚のまま死んだ若い二人の結婚式を行なう習俗を開始し、現在ではこれが最も重要な祭りとして北インド中から五万ないし十万の人々を集める大きな祭りになっている。この祭りで興味を惹かれるのは、先のバンギーに対応する清掃業に従事するアンタッチャブルのカーストが、花嫁のベッドを運ぶという祭りの重要な特権を有していることである(26)。このことは、Panch‐Pirの成員としてのガーズィー・ミヤーンの信者の多数がバンギーのサブカーストであるLal Be‐gis を始めとするヒンドゥー、イスラム両教徒の下層カースト、言い換えればサンスクリット化の進んでいない部族民達であること(27)と並んで、サーラー・マスウードとこれら下層カーストとの深い関係を伝えていて興味深い。
 ここまでで、初期の殉教者であったとされる聖者と、そのダルガーをめぐるヒンドゥー、イスラム両教が混然となったシンクレティズムの雰囲気がお分かり頂けたと思う。次にもっと後になって成立した殉教者としての聖者と、そのダルガーについて見ていきたい。
二.ミラ・ダタル(Mira Datar)とそのダルガーについて。
 ミラ・ダタルは十五世紀から十六世紀初頭に掛けてのムスリム対ラージプートの戦争に際してのMatyr (殉教者)だとされているが、その事実上の生涯については闇に包まれている(28)。ミラ・ダタルの父の子孫を自称する人々からなるダルガーの管理者達の間には、三つのタイプの伝説が伝わっているが大同小異であるので、次にその伝説の要約を示す(29)。
…ムスリムの王とラージプートの王の間に戦争状態が継続していた。ムスリムの王は、自分の部隊長の息子である、十六もしくは十七才のMira Sayed Ali(ミラ・ダタル)のみがラージプートの王を倒すことが出来るという予言を受け、その父を通じてかれに出陣の命令を伝える。ミラ・ダタルは、その命令を受け取ったときnim の木の爪楊枝で歯を磨いていたが、この爪楊枝から一本の木が成長する。ミラ・ダタルは出陣しラージプートの王との一騎討ちで王を倒すが、自らも王の刃に倒れる。ミラ・ダタルは死後に父の夢に現れ、自らの死体をnim の木の下に埋め、さらに自分の足元にラージプートの王の頭もしくは髪を埋めるように告げる。…
 三つの伝説とも、皆概ね以上のような骨子である。興味を惹かれるのは、サーラー・マスウードの時と同様に、ここでも神聖な樹木のテーマが現れていることである。これはイスラム以前からの宗教的伝統との連続性の可能性を探っていく上で重要な要素となろう。
 また、この伝説で特徴的なことは、自らの頭部を聖者としてのミラ・ダタルの足元に埋葬することを願うラージプートの王を登場させることによって、最初からヒンドゥー教徒をその信仰体型の中に取り込んでいく契機が組み込まれていることである。こうしたこともあってか、現在このダルガーを運営している人々には、明らかに非イスラム教徒の者もいるのである。
 さて、このダルガーは現在精神的、心理的な病いに対する治癒力で広くインド中に知れ渡っており、インド国内はもとより、東、南アフリカ、はてはイギリスからまで、これらの病いに悩むインド人を引き着けている。こうしてやってくる帰依者の中には、西欧流の精神医からの治療を長く受け、最後の頼みとしてこのダルガーにすがってくるインテリ階級も数多い。また、他のもっとメジャーなダルガー、例えばアジメールのムイームッディーン・チシュティー廟でも、こと精神的な治療に関してはこのダルガーの優越性を認め、最初他のダルガーを頼っていったのにこちらに回されてきた患者もいるといった具合である(30)。
 また、日本の神社などとの比較で興味深いのは、一定の儀式で聖別されたレンガを使って他の場所に、新たなミラ・ダタルのダルガーを建てる、いわば勧請することが出来るということである。なかにはヒンドゥー教徒が、このようにして自分の敷地内に新たなダルガーを勧請する場合もある(31)。
 このダルガーで行なわれる“治療”の根本は、聖者の神聖な力で、狂気に取り憑かれたものから、その原因となるbhutを追い出すことにある。bhutは悪霊、死霊のことで、本来ヒンドゥー教的な概念である(32)。これをイスラム教の聖者が退治するのである。
 さて、“治療”の実際について、Pfleidererの記述にしたがって紹介すると概ね次の様になる。まず、患者はダルガーに入るとmujawar と呼ばれる一種の神官に引き渡される。そして幾つかの予備の儀式を行なった後に、mujawarは呪文のかかれた紙とコーラン、そして特に二十五の木綿製の馬を使ってbhutの調伏を行なう。二十五の馬は、患者の頭の上で五回振られるが、これはミラ・ダタルの百二十五の騎馬の軍隊を象徴し、これがbhutと闘うのである。(このあたり、日本の陰陽師の式神を連想させて面白い。)この間、患者の体は、トランス状態のなかで見えない糸に操られているように痙攣する。そして、調伏されたbhutは自分の名前と正体をあかすが、このとき患者の声と振る舞いは普段のそれと全く別のものになる。(まるで、源氏物語などに描かれる古代日本の信仰世界そのままではないか。)さらにbhutは、自分がなぜ患者に憑依したのかを語るが、このとき多くの場合、その原因が何らかの理由で恨みや嫉みを持った隣人の呪いのせいであることが明らかにされる。
 こうした一連の儀式と帰依者の振る舞いは、イスラム以前というより、サンスクリット化以前のシャーマニズム的な要素との関連を予想させ(33)、このダルガーをめぐる信仰世界が思いのほか複雑に絡み合ったものであることを思わせる。サーラー・マスウードの時にも触れたように、ダルガーをめぐる信仰世界には、古い樹木崇拝の痕跡も残存しており、ヒンドゥー教、イスラム教のみならず、古くアジア全体の基層文化との関連も示し、全体が混然とした複雑な世界をかいま見させてくれる。
 次に、このような混然とした世界の中でのインド人達の、イスラム教、ヒンドゥー教といった枠組みにとらわれない、流動的な宗教意識を現わす例を幾つか見てみたい。
三.民間信仰をめぐるインド人の宗教意識に関する幾つか  の問題点について。
ガーズィー・ミヤーンの項でも述べたように、イスラム教の聖者を出自としながら、インド人全体の信仰の対象になっている例が存在する。このようなものとして興味を引く例に、サトゥヤ・ピール(Satya‐Pir)の場合がある。
 これは、ガーズィー・ミヤーンや、ミラ・ダタルの場合と違い、伝説的にもその歴史的な出自をたどることが出来ない存在でありながら、イスラム教の聖者(Pir)として信仰されている。しかも一方、ヒンドゥー教徒の間では、同じ存在がサトゥヤ・ナーラーヤナ(Satya‐Nārāyana)というヒンドゥーの神として崇拝されている(34)。ここでいうNārāyana(ナーラーヤナ)とは、ヒンドゥー教の主神の一柱であるヴィシュヌのアヴァターラ(化身)であるところのクリシュナの異称であるから、完全にヒンドゥー教の神である。
 この信仰に関する言及の最も早い例は十六世紀中頃にさかのぼるが、ベンガル語による文献群が盛んに作られるようになるのは、十八世紀初頭からである。
 現在の信仰習俗に関しても、この両者には何ら違いを見ることが出来ず、次のような特徴を持っている。
ア.イスラムの聖者であるSatya‐Pirも、ヒンドゥーの神であるSatya‐Nārāyana も、共に信者からヒンドゥーの地方的な女神であるManasā(35)やChandī(36)と同様なやり方で崇拝されている。
イ.両者ともに神像のようなものを持たず、単なる木の板が崇拝の対象とされる。
ウ.供物などは、イスラムの聖者や、ヒンドゥーの神に対するのと同様なやり方で捧げられる。
 こうした特徴を見ていくと、特にこれらの信仰習俗が行なわれている下層民の間では、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との境界線が不分明なものになっていることが分かるだろう。事実、下層民の間におけるダルガー崇拝をめぐる習俗においては次のような例も報告されている。
インド西部において、ダルガーにお参りに行く人が、臨時にムスリムになるために額に印を付けてもらい、そのダルガーからの帰りには、途中のシバの寺院に立ち寄り、再びヒンドゥー教徒に立ち戻るためにシバの印を受け取る事が普通に行なわれている(37)。こうなると、初詣でなどのときに神社も、お寺も関係無くお参りする悪名高い日本の神仏習合も顔負けという感じがする。
 このように、信者の宗教に対する帰属意識が流動的になる背景には、特にヒンドゥー教側においてヴィシュヌ派におけるアヴァターラ(化身)の思想や、シャクティ派(シバ派)におけるいかなる神格もたくさんいるシバの神妃と同一視することによって自派に取り込んでいく思想など、豊富な手段が用意されているからである。しかし、またイスラム教側においても、スーフィー思想の大衆化に伴って、他宗教の信仰や習俗をある意味では寛容に、ある意味ではルーズに取り入れていく傾向が強まったことも事実である。例を上流社会に取ると、十七世紀初頭のビジャプールのスルタンであったイブラーヒム二世は、自分の詩集の中で、ルネッサンス期のキリスト教ヨーロッパの詩人達がミューズに呼びかけたのと同様な態度で、学芸の女神サラスヴァティーに呼びかけ、その保護を訴えている(38)。
 また、より根源的な、規範に捕らわれない民衆の宗教意識のダイナミズムを示すものとして、荒氏によって紹介されたにせダルガー(僞廟)の問題がある(39)。荒氏の報告では、「僞廟」という呼び方からも分かるとおり、墓に葬られている人物の名や、墓の場所などが誤って伝えられている、といった否定的、消極的なニュアンスが強いのであるが、ここではそれをもっと積極的な民衆の宗教意識の現れとして捕らえたい。というのは、サーラー・マスウードの所で紹介したように、スーフィー聖者の墓、ダルガーはしばしば元来ヒンドゥー教や仏教の聖地であった場所に建てられているが、民衆の豊富な宗教的イマジネーションのダイナミズムは、そうした本来神聖な場所とされてきた場所にわざわざ偽の墓、ダルガーを造り(40)、古い基層文化との連続性にたった上で、形の上ではイスラム教の聖域として崇拝の対象とする、といった事実が有るからである。
 以上見てきたように、民衆、特に下層階級においては既成宗教の枠に捕らわれることなく、信仰するにたる宗教的なパワーを感じさせるものは区別無く自分達の信仰の対象として取り込んでいく、流動的かつ積極的な宗教意識が有り、これが一種の神仏習合的な状況を造り出しているといえる。こうした背景で見るとき、Allāh‐Tāla もアッラーと、何らかのヒンドゥー教の神格とが習合したものではないかという予想が成り立つ。しかし、スーフィー聖者がヒンドゥーの神と同一視される例は多いようだが、私が調査できた範囲内では、アッラーそのものが他の神格と習合しているという例は他に存在しないので、ことは慎重を要する。そこで章を改めて、Tālaについて考察をすすめてみたい。

  第四章 TĀRĀ女神について

 ヒンドゥー教や、その周辺の宗教には残念ながらTālaという名前を持った神格は見当たらないようである。しかし、よくにた名前を持つ神格がヒンドゥー教、および仏教に存在する。それが、Tārā(ターラー)と呼ばれる神格である。サンスクリットにはl やr という子音は存在しない。存在するのは、単母音としてのl およびr 、そして半母音としてのla, raであり、これらは厳密にいえばはっきり区別されている。しかし、Allāh‐Tāla を信仰するバンギーがサンスクリット化の進んでいない、部族民としてのアンタッチャブルであること、彼らの母語も、それからのローマ字化の原則も筆者の手持ちの資料からははっきりしないことから、TālaがTārāの事であるという可能性は十分有ると思われるので以下でTārāという神格について見ていくことにする。
 T?r?は古い起源を有する女神で、造物主ブリハシュパティの妻でもある(41)が、初期のヒンドゥイズムではあまり活躍せず、むしろ仏教のパンテオンに組み入れられてから重要性を増してきた(42)。
 特に、十一世紀の中頃に、チベットへの仏教の第二次流入に主要な役割を果たしたインド人僧、Atisa (アティーシャ)によって、チベットにその信仰習俗が導入されてから、チベット密教の中で重要な役割を演じるようになった(43)。チベット密教のなかにおけるTārāの姿はなかなか複雑で、ある場合には、観音菩薩の涙から生まれた慈悲心の権化として、十五・六才の少女の姿で信仰される。この姿でT?r?は、観音菩薩と同様にその信者をライオンや蛇や泥棒などの八つの危難から救ってくれるとされている(44)。
 また別の場合には、不空成就如来の妃として、宝生如来のシンボルとしてマンダラの主尊となる金剛ターラー(多羅)として信仰を集めている(45)。(衆知のようにチベット密教においては、主要な仏に妃が配され、時によってはそのヤブユム(交合仏)が重要な役割を果たす。もっとも、チベット密教においては、ターラーは穏やかな姿を取ることが多く、ヤブユムなどの姿に表わされることは少ないらしい(46)が、後述するように左道密教ではこの限りでない。)
 このようにして、ターラー女神はチベット仏教の中で重要な位置を獲得し、今度はインドに逆輸入され、ヒンドゥー教の女神となるのであるが、その姿は観音菩薩の化身、という穏やかな姿とは大分おもむきを異にしたものになる。 衆知のように、ヒンドゥー教ではブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三柱の神が主神とされている。しかし、実際には現在ブラフマーはほとんど人気を失い、ヒンドゥー教の主神といえるのはヴィシュヌとシヴァのみである。しかも、ヴィシュヌはむしろそのアヴァターラ(化身)としてのラーマやクリシュナの姿で信仰されることが多い。また、シヴァについていえば、ドゥルガーやカーリーに代表されるシヴァの神妃としての女神達がシヴァと並び、時によってはそれ以上の信仰を集めている(47)。こうしたアヴァターラの思想や、各地の女神達を数多いシヴァの神妃と同一視することが、インドという多様な世界に繰り広げられる、民衆達の多彩な信仰のるつぼを、ヒンドゥー教という一つの統一的な世界観に組み入れていくメカニズムに他ならない。 今、我々の主題からより興味を惹かれるのは、シヴァの神妃のほうである。サンスクリット化が進行していない部族民などの間では、太古の大地母神の現れとしての女神がそれぞれの村などを中心に信仰されていることが多い。これらの女神達はユングなどの言う、グレイト・マザーとして限りない恩寵に満ちた面と、全てを呑み尽くす恐ろしい神の面との、両面を合わせ持つ(48)。そして、これらの女神達を統合していく、ドゥルガーやカーリーを始めとするシヴァの数多い神妃達も、この両面を会わせ持つ存在である。なかでもカーリーなどは、むしろこの恐ろしい姿、言ってみれば憤怒相で多くの信仰を集めているのである(49)。シヴァ自身に対する信仰も、シヴァの破壊と恩寵の神という性格からして当然こうした二面性を持っているが、やはりこのような混沌のなかから湧き出てくる不定形のエネルギー、と言う点では、太古の大地母神以来の伝統を持つ女神群に押され気味で、ヴィシュヌが民衆の人気を化身であったはずのラーマやクリシュナに奪われ気味なのと同様に、シヴァ派の一部でも、むしろドゥルガーやカーリーなどの女神が主神であると言ってもいいような状況にある。
 さて、このような背景のなかで、ヒンドゥー世界におけるターラー(Tārā)は、カーリーと同様に恐ろしい姿をし、時にはカーリーの異名として全く同一視される女神として現れてくる。その信仰が行なわれている地域は、もっぱらベンガル地方周辺で、文献的な言及は早いものでも十七・八世紀のようである。その姿は、時には五つの髑髏の王冠をかぶって虎の毛皮を付け、牙をむき出しにして五十個の人間の首をネックレスとする姿で描かれ、また時にはカーリー同様に裸で長く舌を突き出し、人間の首の束を左手に持ち、死体の上でダンスを踊っている姿で描かれる。そして犠牲の血を好み、特に信者の血を好む恐ろしい女神として信仰されている(50)。このように恐ろしい姿のターラーのモデルとなったのは、チベットでも遅く現れた左道密教のなかで信仰されたTārāKurukulla などの、憤怒相におけるターラー女神らしい(51)。チベット密教ではほとんどの仏が柔和な相と同時に、敵としての煩悩を強力な力で滅ぼす憤怒相を持つことが多いが、この憤怒相のターラーが、さらに血や髑髏をその儀礼の重要な要素とする左道密教にとり入れられ、ベンガル地方に逆輸入されていきカーリーなどと習合していったものと思われる。
 このような恐ろしい姿は、信者にとっては逆に敵や悪を滅ぼす絶対的な力を表わし、ひいては信仰を捧げるものに恩寵を与える絶対者としての側面を表わす。つまりターラーは、単なる群小の女神ではなく、その恐ろしい姿故に信者に特別の恩寵を授ける力を有する偉大なる絶対者として信仰されているのである。
 このようなものとして、ターラーはいわゆるMahādevi(マハーデーヴィー=大女神)の開示された一つの姿として、ヒンドゥー教のオーソドックスな神学のなかに組み込まれている(52)。マハーデーヴィーというのは、異なった起源を有する様々な女神達が、シヴァの神妃としてのカーリーやドゥルガーを中心にして統合されていくなかで、後世に生まれてきた概念で、異なった起源や神話を有する様々な女神達は、この大女神の異なった表現形態として統一的に理解される。このようにして、群小の地方的な女神達も、いわゆる大伝統のなかに組み込まれていくのである(53)。
 以上見てきたところからして、筆者はTārā女神が、その性格から見ても、その信仰の中心となっている地域から見ても、(ウッタルプラデーシュ州は、ターラー信仰の中心であるベンガル地方からも、また、チベットや、インド以上にヒンドゥーの女神信仰の盛んなネパールからも近いところに位置している。)ウッタルプラデーシュ州の下層カーストの成員が、その主神として信仰するのにふさわしい資格を備えていると思う。その意味で、TārāがTālaとしてバンギー達の信仰の対象となり、やがてAllāh と習合してAllāh‐Tāla という新しい神格を生んだ可能性は十分有ると考える。
 次に、章を改めてここまで述べきたったところの整理とまとめを行ないたい。

  おわりに

 さて、ここまでヒンドゥー教とイスラム教との交流形態について、様々な面から考察を試みてきたが、最後に今まで述べてきたところを、ヒンドゥー教からイスラム教への改宗、という側面から論じてまとめとしたい。
 筆者は、ヒンドゥー教からイスラム教への改宗の主要な契機を、政治勢力の強制なり、スーフィー教団などの宗教勢力の布教活動なりの、何らかの意識的な活動にあるとする立場を取らない。むしろ、無意識の下から湧き出てくる、民衆の宗教的なエネルギーが、現世利益などの場を通して顕現し、それがオーソドックスな神学などの枠に縛られない、自由で不定形な仕方で発露することから来る宗教意識の“流動性”がこの改宗という現象を生んだ最も重要な契機であると捕らえている。
 具体的には、まず第一に、サーラー・マスウードのところで見たように、何か信仰するにたる恐ろしい力を持った“もの”(これは、日本語の「神」の原義である)は、なんであれ祭り、信仰するという、民衆の旺盛な信じようとするエネルギーである。この場合、民衆の宗教意識の基層として、ヒンドゥイズム以前の、ほとんど汎アジア的なシャーマニズム的な要素が重要な位置をしめるケースがあることは、ミラ・ダタルのダルガーの場合で見たとおりである。これに関連して重要なのは、イスラム教側のダルガーなどの「聖域」が、本来神聖であった地に作られた、ということである。我々自身の信仰心のことを考えても、特定の場所や対象に向かって何も考えなくてもただ手を合わせるという、ただそれだけのルーティンな作業がどれだけ信仰心の発露や維持に重要な役割を果たすか、を考えるとき、同じ土地で、同じ対象(内容としての神格の名前は違っても)を拝む人々が、自分達の属する信仰集団の正当な神学などに関わり無く、自分達の崇拝の対象を同一視し、自分達の宗教的な営為の意味も同一視していくことは十分考えられることである。(このことに関連して、現代のヨルダンなどにおいても、女性のイスラム教信者が、最も重要な礼拝の仕方や、墓などに対する正当神学的な見解を知らずに日々の宗教的な営みを行なっている、という報告(54)は重要な示唆を与えてくれる。)
 しかし、民衆の営為はラディカルな意味を持っても、その本質上散発的なものになりやすく、地域的にも時間的にも限定されたものになりやすい。歴史の流れに重要なインパクトを与える大きな動きとなるためには、上部構造の方にも民衆の不定形なエネルギーを統合していく契機が形造られて行くことが必要である。ヒンドゥー教の方は、このような宗教的装置に事欠かない。多神教の、雑多で、その分豊饒な宗教的エネルギーを統合していくために、アヴァターラの思想を始め、大母神の思想など、様々な宗教的情熱を呑み込み、吸収し「多様な統一」を形成していくための豊富な装置を持っている。
 では、イスラム教の側はどうであろうか。筆者は、前述した、ティムールの侵攻をきっかけに十五世紀を中心に起こったスーフィー思想の変質、その大衆化と寛容性の増大を重要な契機として捕らえたい。これは、くしくも西アジア各地で起こりつつあった聖者崇拝の発達、その聖者を宗祖とするスーフィー教団の形成と時を同じくし、インドでも聖者崇拝やダルガー崇拝という習俗が大きな発展を見たのである。こうした背景のなかでイスラム教も他宗教の習俗の導入などに寛容な態度を示すようになり、ヒンドゥー教社会、イスラム教社会双方の上部構造としての神学のなかに、民衆信仰のなかで進行していたシンクレティズムを追認する方向性が確立していったものと思われる。
 このような事情を間接的に証明するのが、ヒンドゥー、イスラム両教のなかにシンクレティズムを容認し、発展させる契機がそろった十五世紀前後に、イスラム教への改宗者が急増している事実であると筆者は考える。
 歴史的な経過は次の様になっていたのでは無かろうか。まず、ヒンドゥー教徒を中心に、正統神学などとは縁の無い民衆の間に現世利益の場をめぐって信仰習俗の混淆がおこる。この際、シャーマニズムのような汎アジア的な基層文化を通じてイスラム教徒大衆にも何らかの働きかけが有ったことは想像に硬くない。ついで、スーフィー思想の大衆化とともに、民衆を中心にして、時と場所を同じくする宗教的営為の増大や、そこから来る自分達の信仰の対象の同一視(サトゥヤ・ピールとサトゥヤ・ナーラーヤナの例)などにおいて、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒という意識の壁が崩れ、意識の上でも行動の上でも、現代日本の神仏習合と同様な状態が生まれたと考えられる。このような雰囲気が出来、両教徒の間の心理的な障壁が弱まったところに、何らかの改宗による小さな利益(例えば税金問題など)がヒンドゥー教徒集団の前に現れたとき、比較的抵抗感無く改宗が行なわれたものと想像される。そのときの利益が比較的ささいなもので、意志決定もかなり安易になされたであろうことは、同じカースト集団のなかに、イスラム教に改宗したブランチとヒンドゥー教徒のままのブランチが混在し、決定的な分裂を見ていないことからも容易に想像できる。
 このように神仏習合的な意識が発展していくなかで、ついにはイスラム教の唯一神アッラーさえもがヒンドゥー教の女神ターラーと習合してアッラー・ターラーという、新しい神格を生み出すようになったのだと筆者は考えているが、これらの現象の時間的な前後については決定的な決め手を欠いている。
 以上のことは、現代インドの社会学や民俗学的な資料から過去を推定したものに過ぎないが、歴史的史料の圧倒的に少ないインド史においてはやむを得ないことであり、むしろこうした方法を積極的に推し進めるべきだと筆者は考えている。なお、地方の一高校教師という筆者の立場もあり、資料の収集も思うに任せないため思わぬ間違いが多々あると思う。識者の御叱正を待つとともに、新しい資料や事実の御教授をせつにお願いして本稿を終わりたい。


論文(注)
(1)行基の行動については、根本誠二著『奈良仏教と行基伝承の展開』(雄山閣出版、平成三年)など、またスーフィー達が感慨設備の築造などを通してイスラム思想の土着化に務めた例として、タウフィック・アブドゥルラ編、白石さや・白石隆訳『インドネシアのイスラム』(めこん、1985)中の論考を参照。
(2)スーフィズムについては、近年手ごろな概説書が多い。例えば、中村廣治郎著『イスラム思想と歴史』(東京大学出版会 1980)、ニコルソン著、中村廣治郎訳『イスラムの神秘主義』 (東京新聞出版局、昭和五十五)などを参照。
(3)荒松雄、「ムスリム支配成立期における政治権力と宗教」(松井透・山崎利男編『インド史におけると地制度と権力構造』東京大学出版会、1969)、同、「ムスリム支配下における宗教と政治権力」(『岩波講座世界歴史13』岩波書店1971)、黒柳恒男『インドの諸宗教-宗教のるつぼ-』(佼成出版社 1973)
(4)S. A. A. Rizvi, Muslim Revivalist Movements in Northern India in the Sixteenth and Seventeenth Centuries, Agra 1965., p14-p19
また、聖者伝があまり信頼できないものであることについては、エジプトの例になるが、古林清一、「エジプトにおけるスーフィー教団と聖者崇拝」(『史林』58-2、1975)などを参照。
(5)拙稿、「インド史におけるスーフィズムの研究ーダルガー崇拝を廻って」(『比較文明4』刀水書房、1988)
(6)K. S. Lal, Growth of Muslim Population in Medieval India, Delhi 1973.
(7)S. R. Sharda, Sufi Thought, New Delhi 1974.
(8)前掲拙稿
(9)Sharda 前掲書
(10)C. Ansari, Muslim Caste in Uttar Pradesh, Lucknow 1960., p36-p38
(11)ibid., p35
(12)R. M. Eaton, Sufis of Bijapur 1300-1700, New Jersey 1978., p311
(13)日本の文献でムスリムのカーストに触れた早い例としては、松井透、「19世紀末ミーラートにおける土地所有と地主小作関係」(松井透編『インド土地制度史研究』東京大学出版会、1971)
(14)Ansari 前掲書 p40
(15)ibid., p50
(16)ibid., Appendix C より
(17)荒松雄著、『インド史におけるイスラム聖廟』(東京大学出版会、1977)、同『ヒンドゥー教とイスラム教』(岩波新書、 1977)など。
(18)鈴木斌、「ニザームッディーン・オーリヤー廟での宗教集会について」(『東洋文化研究所紀要』59)、同「ムイーヌッディーン・チシュティー廟について」(『東洋文化研究所紀要』69)
(19)K. G. Schwerin "Saint Worship in Indian Islam: The Legend of the Matyr Salar Masud Ghazi", I. Ahmad ed. Ritual and religion among Muslims in India, New Delhi 1981 所収。なおサーラー・マスウードについては斎藤昭俊 著『インドの民俗宗教』(吉川弘文館、昭和五十九)に言及がある。
(20)M. A. A. Karim, Social History of the Muslims in Bengal, Dacca 1959.
(21)ibid., p167
(22)ibid., p168
(23)Schwerin 前掲論文 p151
(24)ibid., p146-p148
(25)ibid., p148
(26)ibid., p149
(27)ibid., p154-p155
(28)B. Pfleiderer "Mira Datar Dargah: The Psychiatry of a Muslim Shrine" 前掲I. Ahmad, ed. Ritual and Religion among Muslim in India, 所収p204
(29)ibid., p206-p211
(30)ibid., p220, p228
(31)ibid., p215-p216
(32)斎藤昭俊、前掲書 p175-p178
(33)Pfleiderer 前掲論文 p223
(34)Kalim 前掲書 p165-p167
(35)村落単位で信仰される群小の女神ではポピュラーな存在で、おもに北インドで信仰される。時として蛇と同一視され恐ろしい存在ともなる。D. Kinsley, Hindu Goddesses, Berkeley and Los Angeles 1986, p197, p211
(36)ドゥルガーやカーリーと同一視される女神。Kinsley 前掲書 p117。立川武蔵、石黒淳、菱田邦男、島岩、共著『ヒンドゥーの神々』(せりか書房、1986)p138
(37)Schwerin 前掲論文 p145
(38)Eaton 前掲書 p99
(39)荒松雄、「デリーに現存するスーフィー聖者の偽廟と偽墓」(『東洋文化研究所紀要』69)
(40)Kalim 前掲書 p164-p165
(41)W. D. O'Flaherty, The Origins of Evil in Hindu Mythology, Berkeley and Los Angeles 1976., p124
(42)立川武蔵、「金剛ターラーの観想法」(町田甲一先生古希記念会編『論叢仏教美術史』吉川弘文館、昭和六十一)
(43)G. Tucci, Translated by G. Samuel, The Religions of Tibet, Berkley and Los Angeles 1980., p22
(44)ibid., p106
(45)立川武蔵、前掲「金剛ターラーの観想法」、Kinsley 前掲書 p165
(46)アジケット・ムケルジー著、松長有慶訳『タントラ東洋の知恵』(新潮社、1981)p152
(47)立川、他、前掲『ヒンドゥーの神々』p156
(48)立川武蔵、『女神達のインド』(せりか書房、1990)
   同、「生と死を包摂する母神」(川崎寿彦、木谷勤編『生と死の文化史』名古屋大学出版会、1989)や、ユングの書著作を参照。
(49)立川、他、前掲『ヒンドゥーの神々』p144-p148
(50)Kinsley 前掲書 p165-p172
(51)ibid., p170
(52)ibid., p161-162
(53)ibid., p197、立川、他、前掲『ヒンドゥーの神々』 p155
(54)清水芳見著『アラブ・ムスリムの日常生活』(講談社現代新書、1992)