イスラム史におけるスーフィズムの意義について
木村 聡
始めに
近年、イスラム原理主義、という言葉を新聞などで良く見かける。しかし、残念ながら、それが、何に対する〈原理〉主義なのか、は往々にして明確でないようである。高校の世界史の教科書でも、この間の事情はあまりはっきりしないままに、ワッハーブ運動などで唐突に扱われることが多いようである。この際、それがイスラム神秘主義に対する改革運動である、という記述はあっても、そもそもイスラム神秘主義とはなんぞや、と言う点が曖昧なままなので、教科書を読んだだけでは、なかなか理解が難しいようである。
しかし、現代の世界におけるイスラム原理主義の影響力が非常に大きいことを考えれば、それが反対し、改革しようとするイスラム神秘主義とは何なのか、を明確にしておかなければ、現代世界の抱える問題を理解することは難しいと言わなければならない。例えば、イスラム教は、現在の人口構成から見る限り、むしろ東南アジア、南アジアの宗教であると言うことが出来る(1)。」現在のイスラム教徒の大部分は、この地域に集中しており、西アジアは、人口から見る限り現在のイスラム世界の中心ではない。そして、東南アジア、南アジアのイスラム教を深く特徴付けるのがイスラム神秘主義なのである。
それ故、イスラム神秘主義=スーフィズムの理解無くして、イスラム原理主義の理解は有り得ないし、もっと広く現代のイスラムの全体像を描くことは出来ない。こうした観点から、ここでは多くのイスラム原理主義が当面の敵とし、その影響から脱却しようとしているイスラム神秘主義=スーフィズムのあらましについて述べてみたい。
1
ムハンマドがイスラム教を創始したとき、彼の人格の中では、慈愛と恩寵に満ちた神としてのアッラーと、厳しく裁く神としてのアッラーとは、不可分に統一された概念だったと思われる(2)。さらに言うならば、彼の中には、彼自身がその雰囲気の中で呼吸していた、いわゆるジャーヒリーヤ時代(イスラム以前のアラブ世界)のアニミズムの感覚が土台に息づいていたと思われる(3)。そうした意味で、彼が布教したアラブの民衆の概念の世界と、ムハンマドの概念の世界とは、それほど乖離していなかったと思われる。
しかし、ムハンマドの死後、イスラムの信仰共同体としてのウンマを運営していく必要上から様々な機構が整備されて行くに連れてその事情は変化して行った。抽象的なイスラム神学が発達し、ウンマの指導体制を強化するためのシャリーア(聖法)が整備されて行くに連れて、徐々に神の姿は厳めしく、取っ付き難いものに変わって行った。
こうした中で、最初のスーフィズムが芽生えた。それは、神秘的な宗教体験を持つ、宗教的なエリートの思想として現れた。ただし、初期のスーフィー(イスラム神秘主義者)達は、神秘家、というよりは、むしろ禁欲主義者であった。バスラのハサン(八世紀初頭)などに代表される彼らは、自分の現世の罪から来る永劫の罰から救われるために、砂漠で禁欲的な修業に耽ったのである(4)。(彼らが、修業のときに着た荒い織物=スーフから、スーフィーという名称が起こった、という説もある)
しかし、こうした砂漠の禁欲主義者達の思想は、徐々に神に対する愛の思想に道を譲って行く。最初期の女性スーフィー、ラービア(八世紀後半)は次のように言っている。
「おお神よ、もし私が地獄の恐怖からあなたを崇拝するのでしたら、私を地獄で焼いてください。もし私が天国が欲しくてあなたを崇拝するのでしたら、私をそこから追放してください。しかし、もし私があなたご自身のためにあなたを崇拝するのでしたら、どうか貴方の永遠の美をお取り上げにならないでください(5)」
ここには、もはや神の怒りや地獄の罰に対する恐怖は見られない。こうした、神に対する無私の愛は、すでに愛による神との合一の思想を萌芽している。
こうして、スーフィーの間には、ファナーと呼ばれる、神の中に自分の全人格が溶け込み、自分が消滅する体験を、最高の体験とする思想が芽生えてくる(6)。この思想は、一面梵我一如というウパニシャッドの思想に通ずる面が有る。
しかし、このように神との合一を説く思想は、神をこの宇宙から超越したものとみなす一神教の世界では明かな異端思想である。そのため、スーフィズムは、一部の宗教的エリートの秘説として留まり、一般大衆にはあまり影響力を持たなかった。
こうした事情は、九世紀にアラブ世界へのギリシャ哲学の翻訳流入が盛んになるに連れてより顕著になって行く。このギリシャ思想を武器に、イスラム神学は高度に理論化、体系化され、そのなかで神の概念は著しく抽象的で、非人格的なものになっていく。いわば、一般大衆が素朴に信仰する神と、正統神学の神との乖離が起こってくるのである。
しかも、非アラブ民族からの改宗者が増大してくるに連れて、根底にアラブ的な世界観を持つ正統神学はますます一般大衆の宗教的感情の実態に適わないものになっていく。
こうして、イスラム世界では、神学者の神と、一般大衆の信ずる神との乖離が起こってくるのである。
一方、スーフィズムの世界では、神への愛から来る、神との合一思想がより発展した姿を取り始めていた。そうして、遂に十世紀始めのサッラージュに到っては、その神秘体験の法悦の中で、アナル・ハック=「我は真理なり」と叫んで処刑される、という事態にまで到るのである(7)。(「真理」は、イスラム神学では神の異称なので、このハッラージュの言葉は、「我は神なり」と言ったのと同じ意味になる。これは、とんでもない異端思想である。なお、このハッラージュの言葉が、ウパニシャッドの「汝はそれなり」と良く似た表現であることは興味深い)
このような明かな神人合一思想の出現によって、スーフィズムは、ますます正統神学からは異端視され、一般大衆とは無関係な存在でいた。
2
前項で見たようなスーフィズムの異端視、という事情が変化してくるのは、十一世紀から十二世紀にかけて活躍した大神学者、ガザリーが出てからである。アルガゼルの名で、哲学者として西欧世界でも有名な彼は、宗教的な悩みからニザーミーヤ学院の教授、という神学者最高の地位を捨てて放浪し、神秘思想の修業をする。そして、宗教的な改心を経験して大学に戻ってくる。
この後、ガザリーは、スーフィズムが、イスラムの正統神学の世界に確固とした地位を築くのに多大な貢献をした。彼の後で、異端視されていたスーフィズムと、正統神学との和解がなされたのである(8)。こうして、一部の宗教的なエリートの秘説であった神秘思想が、一般のイスラム大衆にも接触できる道が開かれる。
こうした中で、スーフィズムの世界に、イスラム神秘思想界最高の思想家が現れる。十三世紀に活躍した大思想家イブン・アラビーである(9)。彼は、自らの深い神秘体験の中で、神を知り、神から愛される完全人間としての「聖者」という概念を作り上げた。そして、彼は預言者ムハンマドをその頂点とする、「聖者」のヒエラルキーを考え出したのである。
この聖者思想は、これ以後のイスラム世界で大きな発展をとげる。聖者は、預言者と同様に神から直接神秘的な知識を得ることが出来る。さらに、神との仲介者として、ウラマーには出来なかった罪の許し、救い、現世利益などについて神にとりなしをすることも出来る(10)。
このような地点から、「奇跡」を行なう「聖者」という考え方までは、ほんの一歩の距離である(11)。こうした、神から直接神秘的な知識を得る聖者に対しては、天使の媒介で預言者にもたらされる「聖法」=シャリーアは拘束力を持たない。
このようにシャリーアからも自由な聖者、という概念が形成されつつあるときに、民衆の間でも、独特な事態が進行していた。それは、非アラブの改宗者の増大による、異民族の宗教的な概念や慣行のイスラム世界への浸透という事実である。
神学者の唱える、超越的で厳めしく、取っ付き難い神に代わって、民衆はより親しみ易い、恩寵に満ちた人格への崇拝を望んだ。一歩間違えば偶像崇拝になってしまうこうした願望は、しかし厳格な一神教の世界観に完全には順応できない異民族からの改宗者の手でイスラムの大衆社会に浸透していった。
こうした民衆の動きの中で、「聖者」の奇跡力は独特な魅力をもって民衆の前に立ち現れた。
元来、スーフィー自身に取っては、奇跡は重要な要素ではなかった。むしろ、その背景を成す心の在り方、神との合一の体験の方が重要なのであって、奇跡は、単にそれに付随してくるものにすぎなかった。
しかし、民衆の求める、奇跡への切実な欲求によってスーフィーのこの態度は変質して行き、ついには、スーフィーの中にも、奇跡を行なう超能力の獲得をもって修業の目的とするものまで出てくる始末だった(12)。
こうした状況の中で、イスラム以前の聖所や聖遺物が、聖者と関連づけられて崇拝されたり、イスラム以外の宗教的慣行や祭りなどが聖者の命日などと結び付けられて行なわれたりするようになってくる(13)。(インドで、ヒンドゥー教の聖地に、モスクが建てられたりしたことが、現代インドで、緊張を生む原因になっていることなど、まさにこの現象の現れである)
こうした事情は、ゲルマン社会にキリスト教が浸透していく過程でも同様であったことは言を待たないであろう。クリスマスの起源一つを見ても、このことは容易に理解されると思う。
こうして、民衆がより親しみ易い人格的な存在を欲したときに、ちょうどそれに答えるかのように現れた聖者の理論は、民衆の中に聖者崇拝という慣行を生み出すのである。事実、あの有名な大知識人であるイブン・バトゥータでさえそうした慣行にどっぷりとつかっていた。彼が各地に旅行したときに、まず行なうのが有名な聖者の下に訪れることであり、そうした聖者が、三百歳である、ということや、一晩でインドからメッカに行って帰ってきた、などということを何の批判もせずに信じ、その「三大陸周遊記」の中に書いている程なのである。
この聖者崇拝という慣行は急速に民衆の中に浸透し、中世キリスト教世界と同様に、様々な聖者を生み出して行く。特定の病気平癒が得意な聖者、恋愛問題専門の聖者、金儲けに御利益のある聖者、等々、様々な民衆の現世利益の願いを受けて実に沢山の聖者が生み出され、信仰されて行く。そうした聖者の中には、非アラブ諸民族の元来の信仰の対象が、姿を変えて信仰されて行くことが有るのも、聖者崇拝に乗っ取られた観のあるカトリック教会の信仰と同様なものが有る。
こうした動きの中で、民衆の神に対する観念も変質してくる。民衆にとっての神は、ウラマーの非人格的で超越的な神ではなくて、人格的で、恩寵に満ちた愛の神として立ち現れてくるのである。
こうして、スーフィズムは、次ぎの段階を迎えることになる。
3
以上、述べてきたように、イスラム教世界におけるスーフィズムの地位は確固としたものになった。こうした風潮の中で、特定の聖者を始祖とする神秘主義教団が十二〜三世紀頃から徐々に成立し始める(14)。
こうした神秘主義教団が、始祖と仰ぐ特定の聖者を信仰する有様は、あたかも日本の鎌倉以来の祖師仏教が、釈迦よりもむしろ祖師達を信仰の対象とするのと良く似ている。
これらの教団のほとんどが、容易な神秘的な修業の手段として、ズィクル(15)と呼ばれる、神の名を連続して唱える修業方法を採用していたことは、日本の念仏系の宗派との比較としてなかなかに興味深いものを持っている。
これらの教団は、もちろん当初は西アジアで形成されていったのだが、ここではそれが特異な発展を遂げた南アジアの例を取って説明してみよう。
インドにイスラム教が流入し始めた、ゴール朝のムハンマドを始めとし、デリーサルタナットに継承されていくイスラム政権成立の時点は、ちょうどガザーリーによるスーフィズムと正統神学の和解の時点と重なっていた。そのため、インドに流入したイスラム教は当初から神秘主義の影響を受けたものだった。
しかし、それも初期にはシャリーアの拘束性を認める、ごく穏健な態度のものだったと思われる(16)。この時点では、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒とは厳格に区別されていた。
そうした様相が変わってくるのが、西アジアでも神秘主義教団が大発展を遂げ始める十四〜五世紀ごろからである。この頃から、シャリーアを超越した聖者に対する信仰が盛んになり、さらに聖者の持つバラカ(呪力)に対する信仰が盛んになってくる(17)。
バラカというのは、聖者がそれによって病気を直したり、雨を降らせたりする呪力であるが、これは神の力を借りて起こす奇跡と違い、聖者の固有の力であるから、一般信徒には奇跡より重要なものであった。しかも、このバラカは、始祖の聖者から、その墓や、血統や法統などを通じて、聖者の子孫や弟子にも伝えられるものだったのである(18)。
こうして、インドではダルガーと呼ばれる聖者の墓が崇拝の対象になる、という特異現象が生じてきた。しかも、興味深いことに、このダルガーにはイスラム教徒のみならず、ヒンドゥー教徒もお参りするようになる、という現象を生じたのである(19)。これは、当初は、しばしばこうしたダルガーが、元来ヒンドゥー教徒の聖地であった場所に建立されたことから来るものである(20)。しかし、より本質的には、民衆が現世利益を期待するときには、その崇拝の対象の出自など気にしない、という素朴な宗教的エネルギーによるものであろう。神仏習合は、なにも日本だけの専売特許ではないのである。
こうして、インドでは下層のカーストの間でヒンドゥーの寺院にお参りに行くときはヒンドゥー教徒の印を付け、イスラムのダルガーにお参りに行くときはイスラム教徒の印を付ける、などということが平気で行なわれるようになる(21)。それどころか、全く同じ対象を、一方はイスラム教の聖者として崇め、他方ではヒンドゥー教の神として崇めている、などという事態も起こってくる(22)。
こうした事情は、インドの影響でイスラム化して行ったインドネシアなどでも同様であった。やはりバラカを持った聖者が崇められ、その墓が信仰の対象になる、という事態が、当初からあったのである(23)。
インドを例に取って述べてきたが、こうした事情は何も南アジア固有の現象ではない。西アジアでも、教団の始祖のバラカを継承するシャイフを崇拝する、という点や、聖者の墓を信仰の対象とする、という点など全く同じだったのである。ただ、西アジアにはヒンドゥー教のような強力なライバルが存在しなかっただけである。
こうして、中世のイスラム世界は、ほとんどスーフィズム一色に塗りつぶされる(24)。この間の事情は、仏教世界が大衆的な菩薩の仏教である大乗仏教に塗りつぶされたり、キリスト教世界が、キリストの宗教と言うよりも、むしろマリアと聖者の宗教であるカトリックに塗りつぶされていく事情と似たものが有る。
4
前項で述べたように、中世のイスラムはスーフィズム一色に塗りつぶされ、そのシャリーアに拘束されない寛容性から、ほとんど無秩序にイスラム教に取り入れられた非イスラム起源の慣行や思想に覆い尽くされていた。こうした状態に反旗を翻したのが、ワッハーブ運動などの、原理主義的な復古思想だったのである(25)。
これを、今の日本の仏教に例えれば、現代日本を覆っている大乗仏教から、非仏教的な要素を取り除き、中村元などの訳によってようやく日本人の前にその姿を現したゴータマ・ブッダに帰れ、と呼び掛けるのと似たような状況になるだろう。
ワッハーブ運動は、ムハンマドを生んだ地、アラビア半島では一定の成功を収め、第一次のワッハーブ王国が形成され、さらにサウディアラビアに継承されていく。
さらに、この直接、間接的な影響の下に、インド、西スーダン、スマトラなどの各地で類似の運動が展開されていく。
しかし、こうした運動に対する神秘主義教団側からの巻き返しもあった(26)。リビアやエジプトにおけるサヌースィー教団の運動や、スーダンの有名なマフディー運動、さらにイランのバーブ教徒の乱などがその例である。これは、鎌倉の新仏教の挑戦に対する、旧仏教側の明恵や叡尊などの応戦と同様なものである。
実際のところ、十九世紀前後のインドやアフリカなどで起こった民衆反乱は、スーフィーが指導的な立場に居たことが多い。セポイの乱しかり、マフディーの乱しかりである。インドネシアなどでも、反オランダの闘争を指導したのは、スーフィーであった(27)。
実は、こうした事情は現在でもさほど変わっていない。確かにイスラム世界各地で原理主義運動は盛んなのであるが、スーフィズムの伝統もまたなかなかに強固なものが有るのである。事実、エジプトでは十九世紀の後半に、スーフィー教団の成員が増加した、という観察もあり(28)、インドネシアでは、未だに伝統的なウラマーが修めるべき学問として神秘主義思想の習得が課せられている、といった具合である(29)。
もちろん、復古主義というものが、帰るべき過去とするものは、自分達にとって都合のいい時点の過去であることは、明治維新の例を持ち出すまでもなく当然のことであろう。そうした中で、同じイスラム復古主義=原理主義、といっても、それが理想とする過去の姿によって多様な現れ方をすることは言を待たない。
例えば、イスラム原理主義、というと現代ではその代表選手のごとく言われるイランの例を取ってみよう。
イランで主流になっているシーア派の十二イマーム派では、隠れイマームの思想(第十二代イマームが神隠しの状態にあり、復活のときを待っているという思想)や、そこから発生する、イマームが、いずれ救世主として復活し、全ムスリムを導く、という思想(30)はスンニー派と、自派を区別する要因として取り去ることの出来ない要素である(31)。そうすると、イランの原理主義は、少なくとも十二イマーム派の成立の時点以前には遡ることが出来ないわけである。こうして、多分に神秘的な要素が、イランの原理主義には付きまとう、ということになる。
しかし、こうした個々の違いはあっても、イスラム原理主義全体が、西欧の挑戦に対して応戦を試みたイスラム文明の、〈本来〉のイスラムを汚染し、堕落させた要因への反発として起こってきたことは間違いない。その〈本来〉のイスラムの堕落こそが、イスラム諸国の西欧列強への敗北と従属の原因であると、全てのイスラム原理主義者は考えているのである。中世のイスラム社会に浸透した様々なレベルでの非イスラム的な要素のどこまでを排除の対象とするか、はそれぞれの運動が、どの時点までの復古を目的にしているか、によって微妙に違ってくるが、そうした汚染の最大の原因としてスーフィズムが槍玉に挙げられているのは確かなことである。そして、原理主義のそうした攻撃にもかかわらず、現在でも、イスラムの大衆社会でスーフィズムが大きな影響力を持っていることも、また確かである。
日本の、いや、東アジアの社会の理解に、大衆の宗教的願望を満たした、菩薩の仏教である大乗仏教の理解が是非とも必要なように、またヨーロッパ史の理解に、マリアと聖者のキリスト教であるカトリックの理解と、それに対するキリスト教原理主義運動であったプロテスタントの理解が是非必要なように、イスラム世界の理解には、スーフィズム=イスラム神秘主義の理解が、是非必要なのである。
(注)
(1)中村元「講座東洋思想7、イスラムの思想」序文、二頁〜三頁、東大出版会、一九六七年。
(2)嶋田襄平、『マホメットとイスラム』、前掲書、十八頁〜十九頁
(3)嶋田襄平「イスラム教史」、二十八頁〜三十頁、山川出版、一九七八年。
(4)中村廣治郎「イスラム・思想と歴史」、一九六頁、東大出版会、一九七七年。
R・A・ニコルソン「イスラムの神秘主義」、五頁〜六頁、東京新聞、一九八〇年。
(5)ニコルソン、前掲書一一九頁。
中村廣治郎、前掲書一九八頁。
(6)中村廣治郎、前掲書二〇八頁〜二一三頁。
(7)嶋田、前掲書、二一八頁〜二二〇頁。
ニコルソン、前掲書、一五一頁〜一五三頁。
(8)H・A・R・ギブ「イスラム―誕生から現代まで」、一五四頁〜一五六頁、東京新聞一九八年。
(9)嶋田、前掲書、二二九頁〜二三〇頁。
(10)竹下政孝『イブン・アラビーのスーフィー聖者の理論』、二十四頁〜二十五頁、「イスラム世界二十号」、一九八二年。
(11)中村廣治郎、前掲書、二一五頁。
(12)中村廣治郎、前掲書、二一六頁〜二一八頁。
(13)同右
(14)ギブ、前掲書一六八頁〜一七〇頁。
(15)ニコルソン、前掲書、四十五頁〜四十七頁。
(16)荒松雄「インド史におけるイスラム聖廟」、東大出版会、一九七七年。
S.R.Sharda,“Sufi Thought”,New Delhi,1974.
(17)黒柳恒男「アジア仏教史インド編Xインドの諸宗教」、一二四頁〜一二五頁、佼成出版、一九七三年。
(18)同右
(19)荒松雄 、前掲書
(20)K.G.V.Schwerin,“Saint Worship in Indian Islam”,I.Ahmad,ed.Ritual and religion among Muslims in India,New Delhi 1981.
(21)同右
(22)木村聡『インドにおけるイスラムとヒンドゥーの交流について』三十二頁〜三十三頁、「山形大学史学論集十三号」、一九九三年。
(23)今永清二『イスラーム神秘主義の土着化』、一二三頁〜一二四頁、「中東文化センター研究報告No4」、中近東文化センター、一九八三年。
(24)木村聡『インド史におけるスーフィズムの研究』、七十四頁〜七十五頁、「比較文明4号」、刀水書房、一九八八年。
(25)岡倉徹志「イスラム急進派」、五十二頁〜五十四頁、岩波新書、一九八七年。
(26)嶋田、前掲書、二九二頁〜二九六頁。
(27)T・アブドゥルラ編「インドネシアのイスラム」、めこん、一九八五年。
(28)古林清一『イスラーム神秘主義思想の成立と展開』、一〇三頁、前掲「中東文化センター研究報告No4」
(29)T・アブドゥルラ、前掲書。
(30)黒柳恒男、前掲「講座、イスラムの思想」、一八六頁〜一八九頁。
(31)岡倉、前掲書、一一〇頁〜一一二頁。